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薩摩藩の財政改革と調所広郷 その2

前回は薩摩藩の財政状況について述べましたが、今回は天保の財政改革とその改革の陣頭指揮を執った家老調所(ずしょ)(ひろ)(さと)について紹介します。

3 天保の財政改革

薩摩藩は江戸初期から借財が増え続け、文政(ぶんせい)12年(1829)には500万両の借金となり、年間利息だけで年90万両を越え、薩摩藩の年収から見て返済不可能、つまり破産状態に陥っていました。

そこで第8代藩主島津(しまづ)重豪(しげひで)は、唐物(からもの)貿易で成功した調所広郷の手腕に注目して、財政改革主任に大抜擢し、天保(てんぽう)元年(1830)12月、3カ条の朱印状を与えました。朱印状の内容は次のとおりです。

1、天保2年から11年までの10年間に50万両の積立金をつくること。

2、そのほかに、平時並びに非常時の手当てとして蓄えること。

3、古い借証文を取り返すこと。

調所の改革の主なものは、薩摩藩の特産品である米・生臘(しょうろう)菜種(なたね)・砂糖・()(こん)・薬用植物などの品質向上や出荷方法の改善を行い莫大な利益を生み出しました。唐物貿易では、交易品・交易量の増加を幕府に働きかける一方で、許可品目以外の品も手広く取り扱いましたが、これは密貿易という性質上史料が乏しく、全容は明らかになっていません。

また、土木事業にも力をそそぎ、新田開発や河川改修なども盛んに行いました。甲突川の五大石橋も、調所が行った河川改修事業の一環として架けられたものです。

一方、支出削減策としては、500万両に達した負債を250年賦で返却する、しかも元金だけで利息なしという償還法を、天保7年に京都・大阪で、同8年に江戸で実施しました。この一方的な償還法の変更で損害をうけた商人たちは、幕府に訴えましたが、調所は事前に幕府に10万両を上納するなどして裏工作を進め、幕府の手を封じこめました。

こうした調所の改革によって、藩の財政は好転し、弘化(こうか)元(1844)年には目標の50万両備蓄も達成され、薩摩藩は富強の藩へと生まれ変わりました。

4 調所広郷とは

調所広郷は、天明8年(1788)に城下士の調所(せい)(えつ)の養子となり、茶道(ちゃどう)(しき)として出仕し、寛政(かんせい)10年(1798)に江戸へ出府し、隠居していた前薩摩藩主の島津重豪に登用されました。のちに藩主の島津(しまづ)(なり)(おき)に仕え、使番(つかいばん)や町奉行、地頭(じとう)(地方行政の長)を歴任し、藩が行っていた琉球や清との密貿易にも関与しました。天保3年(1832)に家老格、天保9年(1838)には家老になり、藩の財政、農政、軍制の改革に取り組みました。

調所広郷は、名門の出ではなく後ろ盾がないことから、強力な改革を遂行するためにも、藩主のお墨付きである「朱印状」が必要だったのではないでしょうか。

島津斉興の長男の島津(なり)(あきら)と異母弟である島津久光(ひさみつ)の後継者争いがお家騒動にまで発展すると、斉彬が藩主になることによって財政が再び悪化することを懸念した広郷は、久光側についたといわれています。

その後、斉彬は幕府老中・阿部正弘らと結託し、薩摩藩の密貿易に関する情報を幕府に流し、斉興、広郷らの失脚を図ります。()(えい)元年(1848年)、江戸に出仕した際、阿部に密貿易の件を糾問されると、広郷は同年12月、江戸藩邸にて急死しました。死因は責任追及が斉興にまで及ぶのを防ごうとした服毒自殺と言われています。死後、広郷の遺族は斉彬によって家禄と屋敷を召し上げられ、家格も下げられました。

5 改革の評価

調所広郷の評価については、借金の踏み倒しや、砂糖の専売により奄美の人々を苦しめたというイメージが強いですが、借金は廃藩(はいはん)置県(ちけん)で薩摩藩がなくなる明治4年まで着実に返済していますし、商人に対しては特産物などを専売品として扱わせて利益を上げさせました。また、殖産・農業の改革、役人の不正防止、軍制の改革になどにも着手して成功しました。

このように、調所の改革は単なる経費の節約だけでなく、むしろ積極且つ合理的な投資を推進する側面もあったようです。

甲突川の石橋架設をはじめとして、三五郎波止場の建設、祇園之州の築地、新田の干拓と補修、甲突川や川内川上流の大改修などを進めました。霧島地区においては小村(こむら)新田の開発や福山地頭所の石垣修繕など、この改革の成果でできた産業基盤は、その後の薩摩藩や地域住民に多大な恩恵をもたらしました。

  小村新田の水門防波堤(伝岩永三五郎作)
     福山地頭所石垣(伝岩永三五郎作)

特に、苗代(なわしろ)(がわ)地区(日置市)では薩摩焼の増産と陶工たちの生活改善に尽くしたことから、調所広郷への尊崇(そんすう)の念は今日まで強く残っています。

明治維新における薩摩藩の活躍は、西郷や大久保などの下級武士の台頭もありますが、強力な軍事力や豊富な財源の確保には、財政改革を行った調所広郷の影響は計り知れないものがありました。

6 終わりに

 薩摩義士の活躍やこれまで述べてきました調所広郷は、歴史の表舞台に立つことなく、歴史の中に埋もれた存在ですし、同様にひとつの事件によって悪人・非道の汚名を着せられた人たちは大勢います。赤穂浪士の敵役となった吉良上野介はその際たるもので、吉良家の領地である三河では、堤防などの治水工事や新田開発などを積極的に進めた名君として、現代でも慕われています。

 このように、人々の評価は、時代の背景や為政者、さらにはそれぞれの立場によって随分変わってきます。薩摩義士の評価は明治になってからですし、調所広郷も近年になって再評価されています。

木曽三川治水工事や天保の財政改革では彼らだけでなく、藩主をはじめ薩摩藩全体の懸命な努力により、困難を切り抜けてきたわけですが、歴史に埋もれた人々に対して、改めて正しい評価と場合によっては汚名返上を与えていくことが、歴史を顕彰(けんしょう)する私たちの役目ではないでしょうか。

      写真:著者撮影               文責:鈴木

投稿者プロフィール

suzuki
霧島市に在住しています。
読書とボウリングが趣味です。