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山ヶ野金山

山ヶ野金山は江戸時代の初期に発見され、昭和28年の閉山までの299年間、薩摩藩並びに島津家の財政的な側面を貢献したばかりでなく、金の採掘で取得した技術は河川工事や新田開発、用水路の整備などに活かされ、藩内のインフラを大きく変えました。今回は山ヶ野金山の概要とその影響にについて紹介します。

1 山ヶ野金山とは

山ヶ野金山は、霧島市横川町北西部の市境近くにあり、その範囲は旧栗野町、旧薩摩町まで広がっています。山ケ野金山の発見は、江戸時代初め、川内川の支流で農夫が金鉱石を発見したのが始まりとされており、当時宮之城主であった島津(しまづ)久通(ひさみち)はすぐに薩摩藩主島津(しまづ)光久(みつひさ)に報告し、金山の探索に当たりました。

山ヶ野地区集落

 その結果、寛永(かんえい)17年(1640)3月に、永野地区の夢想(むそう)(たに)から金鉱脈を発見しました。その時の様子は「あたかも(あか)(うし)(ふせ)せたるが(ごと)く」と伝えられ、金の塊が露出した状態で見つかったことから、金の埋蔵量が豊富であったことを伺わせます。

山ヶ野金山は日本屈指の金の含有量を誇り、採掘の年から(わず)か3年間で約26トンもの金が産出しました。それは、予想を超えた産出量だったことから、幕府から採掘中止の命令が出たほどでした。

採掘中止から13年後の明暦(めいれき)2年(1656)に金の採掘は許されましたが、地上に近い部分の金はすでに取り尽くされており、地中深くまで鉱脈を掘る工法と変わったことから、(まん)()2年(1659)をピークに金の産出量は減少していきました。それでも明暦年間の開始から幕末までの211年間で25トンの産出量となりました。

山ヶ野金山の様子『三國名勝図絵より』
金鉱石を砕き、砂金を採集『三國名勝絵図より』
砂金の採集の様子

このように、山ヶ野金山は江戸時代を通して、財政に苦しむ薩摩藩の貴重な財源でありました。ちなみに、幕末期の1年間の金産出は3万6千両ほどで、奄美の砂糖の23万両と比べて開きはありますが、それでも第2位の収入源がありました。

2 山ケ野金山の概要

 ①金山の捜索

山師の招聘石見(鳥取)から内山与右衛門を招聘(しょうへい)
金鉱脈の発見寛永17年(1640)3月に夢想谷から発見
夢想谷:島津久通が夢の中で見たとされたことから命名

 ②日本一の産出量

総産出量約80t(3位)
1位菱刈:248.2t(2020,3月現在)、2位佐渡:約82t
年代別産出量開山当時 (1640~1642)   3年間  26t
明暦~幕末(1656~1867) 211年間  25t
明治~閉山(1868~1953)  85年間  29t
金の含有率金鉱石1t → 40g (世界平均=3~5g)

 ③山ケ野金山の歴史

寛永17年(1640)宮之城領主島津久通によって発見
寛永19年(1642)1月、幕府から採掘許可を得る
寛永19年(1642)12月、幕府から休山を命じられる
 13年間 採掘の中止
明暦2年(1656)幕府から金山の再開の許可を得られる
明治10年(1877)フランス人技師ポール・オジェを招聘
明治40年(1907)水天(みずてん)(ぶち)水力発電所から送電(鹿児島最初の電化)
昭和18年(1943)戦争により重要産業(鉱山)へ転用するため操業停止命令
昭和28年(1953)閉山(299年間)
島津家が建設した水天渕水力発電所(島津家の家紋が見える)

④山ケ野金山の影響

財政面借入金の返済 江戸・京都藩邸への財政的支援
公共事業河川改修工事、藩内各地の新田開発
技術的面国分平野の天降川川筋直し(1662~1666)
金・銀・銅などの鉱山の開発
火入坑跡(硬い岩を焼き、水で冷やして岩を脆くした)
屋敷跡(坑道から出た石を利用)

⑤記録で見る山ケ野金山との繋がり

山ヶ野金山で産出した金の使い道を記録した資料『山ケ野金山御取立之由緒』では、(まん)()2年(1659)から元禄(げんろく)元年(1688)まで、銀9,392貫目(187,840両・18,784,000千円)を産出しました。その主な使途は次のとおりです。

なお、金銭のレートについては、江戸初期の1両小判(慶長(けいちょう)小判)は改鋳(かいちゅう)する前で、小判の金含有量が良質な状況だったことを(かんが)みて、銀1貫目=20両、1両=100千円として換算しました。ちなみに、改鋳が進み金含有量が少なくなった江戸後期のレートは、1両=60千円まで下落しました。

銀換算金換算円(千円)内 容  ():語訳
6,446貫目128,920両12,892,000古借銀、御返済方
(借入金の返済)
347貫目6,940両694,000江戸御用ニ付、被差上候 (江戸藩邸に係る御用金として)
160貫目3,200両320,000京都御用ニ付、被差上候 (京都藩邸に係る御用金として)
362貫目7,240両724,000御納戸へ時々相納候
(藩主の衣類・調度品など)
137貫目2,740両274,000国分川堀並清水新溝掘
(天降川川筋直し事業)
366貫目7,320両732,000湯之尾、本城、其他十二郷、新井出堰、新溝掘方
(藩内各地の土木事業)
7.5貫目150両15,000大口新溝掘入目
(大口用水路工事)

3 山ヶ野金山がもたらしたもの

山ヶ野金山の発見は、恒常的に財政赤字であった薩摩藩の財政を一時的ではありましたが(うるお)しました。当時の薩摩藩の年収は20万両ほどとされていますから、上表の借入金の返済12万9千両は年収の半分以上となっていますので、その影響・恩恵は非常に大きかったと思われます。

また、金山で得た資金は藩内各地の土木工事を中心とした公共事業にも使われました。

国分平野を流れる「天降(あもり)(がわ)」の川筋直し工事では、資金援助と金採掘工夫の技術が活かされました。地元では「新川は井戸を掘って造った」と不思議な逸話が伝えられています。この方法については、次回に紹介したいと思います。 写真:著者撮影、尚古集成館所蔵        文責:鈴木

投稿者プロフィール

suzuki
霧島市に在住しています。
読書とボウリングが趣味です。