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えらぶ民謡をえらぶの人に…静岡出身の男性が島で三線教室をはじめたワケ:

えらぶで三線教室をはじめた男性の話

2022年9月、沖永良部島で、ある三線教室が誕生しました。

教室を主宰者の名前は波多野雅也さん。静岡出身の27歳、移住時期は今年の6月。一見するとえらぶ(沖永良部)と縁がないようにも見えますが、大間違い。その出会いは10年前にさかのぼります。しかしその舞台は島ではなく、意外にも尼崎市(兵庫県)でした。

なぜ三線?なぜ尼崎??

とてもドラマのある話、聞いてください。

三線を弾く波多野さん(左)

離島専門引っ越し業者で働く波多野さん

波多野さんが勤める会社は、離島専門引越し会社のアイランデクス。本土から離島へ、離島から本土へ、はたまた離島から離島へ。離島絡みの引っ越しや、車の輸送などをお手伝い。仕事は、そのカスタマーサービスで、引っ越し費用の見積もりをしたり、奄美群島で現場があれば駆けつけたりという内容です。

「今の仕事をはじめたのは2020年の7月です。それまでは兵庫の専門学校を出て、義肢装具士という義手や義足などを製作する仕事をしていました。そのあと半年間、知人の紹介で瀬戸内町(奄美大島)のマグロ養殖の仕事をしてから、再び義肢装具士の仕事に戻ったんですけど、島での暮らしが心地よくて一年くらいで辞めて、代表が知り合いだったことと、島に関わる仕事ということで、アイランデクスに転職しました。」

アイランデクスのメンバーたちと

三線教室に行ったら、全員えらぶ関係者!?

進学で兵庫に出た18歳の頃、「趣味をつくろう」と考えた波多野青年。もともと地域の盆踊りで聞こえてくる民謡が好きだったことから津軽三味線を思い浮かべたが、三味線もお稽古代も高かったことから、「三線にしよう」と関西の三線教室に片っ端から電話をかけ、そこで出会ったのが城村秀治民謡研究所だった。

「ほかの教室は事務的な対応の中、城村先生のところだけ『すぐに来なさい!』と喜んでいる様子が伝わって。それに惹かれたのか行ってみたら、10人くらいの生徒さんほぼ全員が島生まれ島育ちで、二世(親が島出身)の人が一人だけ。地図を広げて最初に教えられたのはえらぶの集落の名前でした(笑)。」

10人いた生徒はほとんど70~80代。昔から城村先生に教わってきた生徒ばかりで、「全員が教師をできるレベル」だったとのこと。そんな中で突然やってきたヤマトンチュ(内地の人)、何なら孫より若い波多野さんに、歓迎してくれる先生とは逆の態度も感じたという。

城村先生(中央前列)と教室参加者のメンバー

しかしそこはやっぱり島の人。波多野さんが三線教室に通い詰め、いっしょに酒を飲み交わすようになり、沖州会(全国9拠点ある沖永良部島の郷友会)に通ううち、沖縄旅行に連れて行ってくれたりと、それこそ孫のように可愛がられるような間柄になっていった。

しかし、ほぼ全員がえらぶ出身者であるものの、意外にも教室で教えられる民謡はえらぶの民謡ではなく沖縄民謡が主流だったという。

「えらぶではテレビもラジオも何もない時代、唄遊びというのがあって、月明かりの晩に畑仕事のあと集落のたまり場で集まって歌を掛け合って遊んでいたんですね。今でいうクラブみたいなもの。そこで歌われたのがえらぶ民謡なのですが、兄弟子たちが学ぶものは沖縄民謡が主流でした。でも僕はなぜかえらぶ民謡に惹かれて、1曲2曲弾けるようになったところ、城村先生が『あんたは天才じゃ!』とめちゃくちゃ褒めてくれたんです(笑)。それが嬉しかったんでしょうね、どんどんえらぶ民謡をやるようになりました。」

沖永良部島出身者の郷友会・尼崎沖州会の総会にて民謡を披露

それから城村先生が亡くなるまでの7年間に渡り指導を受けて、波多野さんは「城村秀治・最後の弟子」に。教室が閉じたあとも、兄弟子といっしょに練習する中で、ある考えが頭の中をぐるぐる巡るようになりました。

ここまでえらぶに関わっておいて、えらぶに住んだことがないのもあれやな、死ぬ直前に絶対後悔するな、と思いはじめて。当時は仕事もアイランデクスでリモートワークになっていたし、社長も僕がえらぶに住むことを応援してくれていて、このまま歳をとるほど移住のハードルは高くなっていくので、今行こうと決めたんです。」

島の仲間たちとの飲み会にて

周りの応援を受け、えらぶで三線教室開講。

そうして2022年6月に移住。それから二ヶ月後に教室開講とは展開が早く感じるが、三線教室をはじめることや、また教えてお金をいただくことにも、いろんな葛藤があったという。

「城村先生や、兄弟子からは『お前がやらなくちゃえらぶ民謡がなくなってしまう』と応援してもらってはいたのですが、僕は正式に後継者として認められてはいないんですよね。その理由には、島の人の血が入っていないこともあると思うんです。昔の考えかもしれないけど、僕はそうやって教えられたので、当然のことだと思っている。だから、ヤマトンチュである自分が教室をやるという行動と、自分自身の考えが重なっていないんですよね。

引っ越し作業を手伝ったお客さんが三味線を持っていたので、祝い唄を披露。

「月謝についても、奄美群島の民謡って生活に根ざしたもので、ふだんは仕事をしながら自然に覚えていくことが本来の形なので、それでお金をいただくっていうのはご法度です。でも、お金はいただかないと、教えるこちらも教わる向こうもやる気につながらないので、そこはいただくことにしました。それでもだいぶ安くは設定しましたけど。」

しかし、もともとは1~2年のんびりしてから三線教室をはじめようと考えていたとのこと。それが予定を早めて移住後2ヶ月で行動に移したことには、どんな思いがあったのか。

しかし、もともとは1~2年のんびりしてから三線教室をはじめようと考えていたとのこと。それが予定を早めて移住後2ヶ月で行動に移したことには、どんな思いがあったのか。

周りの島の人たちから、行動するなら早い方がいいよと言われたことですかね。自分が住んでいる上平川集落の人もそうだし、下平川小学校の校長先生にも話したら、その日のうちに教室のチラシをコピーして生徒全員に配ってくれたりしてくれたんです。今は3人の方から問い合わせがあって、10月から本格的にはじめることになっています。うち一人は90歳の方で、すごい昔のいい歌を歌ってくれるので、僕も勉強になります。」

自分は中継ぎ、えらぶ民謡はえらぶの人に。

「沖永良部民謡は本来はえらぶの人がやるもの」「なので僕は中継ぎになるつもり」と話す波多野さん。最後に、これを読む、とくにえらぶの人に対して言いたいことがあれば教えてほしいと尋ねると、このように話してくれました。

えらぶって、奄美と沖縄の間にあって、民謡だったり方言だったりとめちゃくちゃいい文化がたくさんある。そうした文化に対して、島の子どもたちや若い世代の人が目を向けてほしいなと思うし、彼らが興味を持つよう僕自身も頑張りたいと思います。」

三味線募集(Instagram投稿)

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文・写真:ネルソン水嶋(えらぶカレンダー運営者)
写真提供:波多野雅也さん

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