私たち加計呂麻バスは、加計呂麻島で唯一の陸上交通を担うバス会社として昭和55年に運行を開始し、これまで島民の生活路線として町営船「フェリーかけろま」の運航に接続するかたちでバスを走らせてきました。
加計呂麻島がどんな島なのか、記事を通してお伝えすることができたらと思います。
加計呂麻島(かけろまじま)は、奄美大島のすぐ南にある島で、全部で8島からなる奄美群島に属する小さな島です。
リアス式海岸の複雑な地形に、30もの小さな集落が点在し、現在の人口は1000人ほどで、独特な時間が流れる「神の島」、「唄の島」などとも言われてきました。
日本の原風景が残された島として、「にほんの里100選」にも選ばれた、手つかずの自然が残る島と言われています。
1956年、昭和の大合併までは、島の東側に「鎮西村」、西側に「実久村」という2つの村があり、全国どこもそうなのかもしれませんが、今の8倍ほどの8500人を超える人が住んでいたそうです。今では想像することも難しいほど賑やかだったと言われています。
加計呂麻島の歴史が魅力的なものと言えるひとつに、旧実久村の実久集落にある実久三次郎神社には、源氏の源為朝の子である三次郎が祭られており、隣の旧鎮西村の諸鈍集落にある大屯神社には、平家の平資盛が祭られています。 こんな小さな島の東と西に、平氏と源氏の両方の伝説が残されている不思議な島は珍しいのではないでしょうか。
1609年に、薩摩藩の侵攻を受けるまで奄美群島は琉球王朝に属しており、そのため奄美群島は琉球文化の影響を大きく受けており、この時代を那覇世(なはんゆ)などと言います。その後は薩摩藩の支配下となり、サトウキビ生産を強制され「黒糖地獄」などと呼ばれる圧政に苦しむ時代が続くわけですが、この頃に黒糖焼酎が誕生したとも言われています。薩摩藩が明治維新を成し遂げた影に、藩の財政を支えた要の一つとして奄美の黒糖の存在があったとも考えられています。この時代を大和世(やまとんゆ)と言います。
その後、大正時代から昭和初期にかけて建造された軍事施設が、加計呂麻島には数多く残されており、第二次大戦末期には本土防衛の最前線基地として、震洋という特攻艇を出撃させる基地などの戦跡も残されています。終戦後は沖縄と同様にアメリカの統治下に置かれ、昭和28年に祖国復帰を果たすまでの8年間をアメリカ世(あめりかゆ)と呼ばれています。
加計呂麻島を含む奄美群島は、県本土と沖縄のほぼ中間に位置する地理的な要因もあったため、琉球→大和→アメリカに支配されるという歴史が続き、琉球文化と大和文化が交わる、奄美独特の文化が醸成されていったのではないかと考えられています。
奄美群島の歴史に触れずして、加計呂麻島を語ることはできないわけですが、悲しい歴史の中から「奄美大島紬」や「黒糖焼酎」や「奄美の島唄」などが生み出され、独自の文化が形成されて来たことを思うと、感動せずにはいられないといったところです。
日本の原風景が残る島、琉球文化と大和文化が入り交じる独特の空気感を、ぜひ一度、加計呂麻島に味わいに来てみて下さい。
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