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天降川の川筋直しと山ヶ野金山

前回は、山ヶ野金山について述べましたが、今回は金山の採掘で(つちか)った技術(工法)を用いた天降川川筋直しについて紹介します。

1 暴れ川「天降川」

天降川の流れる国分平野は、縄文時代早期(約6千年前)の温暖化に伴う海面上昇等によってできた沖積(ちゅうせき)平野(へいや)で、平野奥部までの標高の高低差はなく、川は蛇行し、流れは(ゆる)やかになっていました。そのため、普段は(おだ)やかな流れですが、多量の雨が降ると増水や氾濫(はんらん)を起こして人々を苦しめてきました。

             新しく掘られた新川

薩摩藩2代藩主島津(しまづ)光久(みつひさ)は、(かん)(ぶん)元年(1661)3月、参勤(さんきん)交代(こうたい)で国分小村(こむら)(現在の広瀬(ひろせ))に宿泊した際、「大雨によって天降川が度々氾濫(はんらん)し、家や田畑を押し流すため、甚大な被害を(こうむ)っている」と、住民から実情を聞き、宮之城島津家の当主島津(しまづ)久通(ひさみち)に天降川の河川改修工事を命じました。

工事は(かん)(ぶん)2年(1662)から(わず)か4年の歳月で工事を完成させました。この大事業によって、川の跡が広大な水田に変わり、およそ5000石の米が新たに収穫できるようになりました。工事の内容は次のとおりです。

手篭(てかご)(がわ)を府中台地に通して川筋を変え天降川に合流させる
天降川を大野原台地に通して川筋を変える
天降川が旧河川へ氾濫(はんらん)しないように、堤防を造る

島津光久公が天降川川筋直しという難工事をあえて島津久通に命じたのは、土木工事に長けており、新田開発など多くの実績を持っていたことが挙げられます。

    新しい川は河岸段丘(黄緑の部分)を通っている

2 島津久道とは

島津久通は、宮之城島津家三代目の島津久元(ひさもと)の嫡男として慶長(けいちょう)9(1604)年に生まれました。寛永(かんえい)20年(1643)に宮之城領主となり、正保(しょうほう)2年(1645)に薩摩藩の家老職に就いて、新田の開発や杉の造林、(かみ)()きの奨励、茶の栽培をてがけるなど、藩の財政再建に努めました。今でも蒲生地域には、蒲生和紙や杉林の美林(びりん)が残っています。

中でも、領内にあった山ケ野・永野で金山が発見されると、陣頭に立って金の産出に携わりました。その結果、産出した多量の金は、疲弊(ひへい)した薩摩藩の財政を助けるとともに、天降川川筋直しをはじめ、藩内の土木事業の財源としても使われました。(前回のコラムで紹介しました)

3 新川(あらかわ)の名の由来

私事ですが、昭和62年に初めて国分に移り住んだ時、とても不思議な名前があるな、って感じたことがありました。国分平野を流れる天降川は、ホテル京セラの辺りから「新川」と名前に変わります。通常は支流の河川名が違うことはありますが、本流なのに名前が変わる。とても不思議に思って調べましたら、江戸時代初頭に川筋を直したことが分かりました。

地元ではその新たな川を「新川」と呼んでおり、その名は国道10号に架かる橋にも「新川橋」の名が付いています。また、市役所周辺には「(かわ)()流合(ながれあい)」という地名がありますが、流合は天降川と手籠川が合流する場所のことであり、当時の河川の名残(なごり)が地名として今日まで残っています。

  国分市街地にある記念碑(この辺りは川跡と呼ばれている)

4 川筋直しの工法

地元の人々の間では「新川は井戸を掘って造った」という話が残っていますが、どのような方法だったのかまったく分かっていませんでした。ところが、大分市宗方(むなかた)村に残された絵図が発見されたことから、より具体的なことが分かってきました。

絵図には地下へ縦に井戸を掘り、さらに横に穴を掘りつなぎ、地下水道を作っている様子が描かれています。青竹の管を差しこんで空気穴を設けたり、松明を灯したりしている様子も描かれています。

      大分に残っていた絵図

この工法を採用した工事は、次のような手順で行われたと思われます。

① 新たな河川ルートを設定し、等間隔に井戸(縦穴)を掘る
② 井戸の底部を横穴で繋ぎ、地下トンネルを通す(絵図1)
③ 地下トンネルの上流から水を流す
④ 下流(海岸側)の土砂を水の中に崩して水の力で海へ流す。(絵図2)
⑤ 地下トンネル上の土砂を全て水で流し、細長い溝を造る
⑥ 本流の川を少しずつ堰き止め、水量を増やしながら、川幅を広げる

では、何故このような工法を国分平野で用いたのでしょうか。それは、次のような点が考えられます。

        井戸を掘って地下道でつないだ
         水の力で土砂を錦江湾に流した
○当地域は上流から流されてきた砂や粘土が幾重にも堆積してできた沖積平野である
○土壌は粒子の細かい砂質となっている
○砂層のため、水で流し易かった
○現代のような機械力はなく、当時は馬・牛・人力だけの作業であった
○短期間に工事を終わらせるため、身近にある豊富な水の力を活した

5 山ヶ野金山の功績

また、当地域は砂層であるため地下の壁面は非常にもろく、崩れやすくなっています。そこで、(たて)(ぼり)の井戸や地下トンネルを掘削する際は崩落を防ぐため、壁面は四方を厚板で覆ったと思われます。さらには、地下トンネルからは地下水が湧き出るため、その対策も行っていたと思われます。この技術は、横川の山ケ野金山で培った技術が大いに役立ったと思われます。

このような奇抜な工法は、あくまでも地元に残る口伝(くでん)と当時可能な技術力を加味したもので、さらには大分で発見された絵図を参考としました。現在、新川沿いに川を掘った土砂が残っていないことを考えると、その多量の土砂は錦江湾に流した工法を用いたことは間違いないと思われます。

        河川が変わって広大な耕作地ができた

このように、天降川の最上流にあった山ヶ野金山の資金と技術は、天降川の最下流の川筋直しという工事に大きく影響を与えました。平成17年に横川・牧園・霧島・溝辺・隼人・国分・福山の1市6町が合併しました。この合併はまるで356年前の工事を彷彿(ほうふつ)させる出来事となりました。

写真:著者撮影 図面:『天降川の川筋直し』より抜粋   文責:鈴木

投稿者プロフィール

suzuki
霧島市に在住しています。
読書とボウリングが趣味です。