1 旧田中家別邸とは
旧田中家別邸は、霧島市福山町出身の田中省三氏の別邸として、大正11年(1922)に建造されました。ちなみに、今年で築100周年を迎えます。
建物の構造は木造瓦葺の平屋建て、建坪面積は429㎡(130坪)で、和風住宅に洋間を取り入れた和洋折衷式となっています。木材はおもに屋久杉が用いられ、ケヤキやヒノキ、杉、竹材等も用途に適した場所に使われています。
屋根裏にあった棟札には、大阪から招聘した大工棟梁らの名前が記されていることから、田中氏が大阪で交流のあった人達に依頼したことがわかります。
大正時代の建築的特徴を良く示し,県内でも先進的な建築様式を取り入れ、しかも室内の意匠も見事であることから、平成18年に県指定文化財(建造物)に指定されました。
2 田中省三とは
田中省三は、安政5年(1858)に福山村小廻(現霧島市福山町)で8人兄弟の末っ子として生まれました。実家は集落一の農家で、漁業を生業とする綱元でもあったようです。明治10年に勃発した西南戦争に18歳で従軍、政府軍に捕らわれましたが、その後、許され故郷の福山に帰り勉学に励みました。
明治17年、25歳で師範学校を卒業し、福山小学校等で教鞭を取りました。その後、大阪府の裁判所で書記を務めましたが、辞して、明治27年に大阪の堂島にあった福永商店の店員となり業績を上げ、商才の頭角を現しました。福永商店では海運業を学び、その後、独立して海運業を始めました。日露戦争では、中国大陸、朝鮮半島で飲料水が不良のため給水船を造船し、大陸へ飲料水を運び、莫大な資産を得ました。
大正4年に自営の鉱山のあった大島郡から出馬して衆議院議員となり、大正7年には福山中学校(旧福山高校)の設立に25万円(現在の価値で約1億円)を寄付するなど、郷土の人材育成にも貢献しました。
3 旧田中家別邸のつくり
別邸は、接客用の座敷、洋間、居住、台所、蔵の5つの部分で構成されています。来客用とプライベート部分は玄関の間で分けられており、外観は和風に内部に洋間を接客空間に取込むのは、大正時代の特徴となっています。当事、鹿児島県内において母屋内に洋式の応接間を設け、外観を和風に内部を洋風にした建築様式の先例はなく、歴史的に見ても非常に重要な住宅となっています。
また、斬新な意匠が随所に見られ、座敷の床と違棚との間に設けた丸窓、違棚下方にある花頭窓、書院の組子障子、廊下天井の丸太状(私用廊下は角状です)の垂木などが挙げられます。さらには洋間の大理石使用のマントルピース、天井を二重にして各所に施した漆喰飾りは県内では見られない精巧な造りとなっています。
4 旧田中家別邸庭園(市指定名勝文化財)
別邸の敷地面積は1,320坪(4,276㎡)を有し、別邸と庭園はそれぞれが独立して離れており、その間に広場を設けています。庭園の後方には錦江湾・桜島を借景に入れるような配置をしており、広場では当時流行し始めた野外での祝宴(ホームパーティ)を催すことができました。また、庭園には回遊する小道を設けており、庭園から池を通して屋敷を眺めることもできます。
屋敷と庭園を独立させながらも、座敷から眺める雄大な錦江湾・桜島を借景とすることで、座敷と広場、庭園、そして借景を一体に結びつける、非常にユニークな配置となっています。ちなみに、島津家別邸の「仙巌園」も同様な配置をしています。ぜひ、見比べていただけたらと思います。
このように、旧田中家別邸は、伝統的な和風住宅を基本としつつも、接客とプライベートを分け、洋間の漆喰装飾や各所に見られる精巧な意匠、さらには空間を見事に演出した庭園など、見所満載の邸宅となっています。
ちなみに、私がお勧めしたい見所は座敷の「天井板」です。材質は屋久杉。一枚板で節のない無節となっており、現在では手に入れることかできない貴重な用材となっています。また、屋根を支える「柱」にも注目していただきたいです。柱の側面の年輪は幅が非常に細かくなっており、数百年の樹齢でないと見られない年輪となっています。
写真:著者撮影、一部霧島市提供 文責:鈴木
投稿者プロフィール
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霧島市に在住しています。
読書とボウリングが趣味です。
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