1 九州の鉄道
九州は、西欧列強国やアジア諸国に対しては最初に接触する場所であり、戦闘が起きた場合は最前線でもあったことから、軍事的にも重要な地域でありました。そのため、鉄道の整備を早急に進めるため、建設には民間の力を導入して、明治21年(1888)6月に「株式会社九州鉄道」が設立しました。
鹿児島線の鉄道敷設については、明治22年に博多~千歳川仮停車場間を皮切りに着々と延ばしていきました。博多~八代間は内陸や有明海沿いを走るルートに決まりましたが、八代~鹿児島間は内陸を通り人吉を経由するルートが採用されました。これは、比較的平坦で建設費がかからないルートは東シナ海を面する海岸線ルートとなりますが、艦砲射撃による破壊の恐れがあることが要因となったようです。
2 肥薩線(旧鹿児島線)
南九州地域における鹿児島線の敷設工事は、明治32年に鹿児島~国分(現隼人)間が開通し、明治36年には国分~吉松間が開通しました。鹿児島線の敷設の様子は、下記の年表のとおりです。
明治21年 | 1888 | 株式会社 九州鉄道設立 |
明治22年 | 1889 | 博多~千歳川仮停車場間の開業 八代~鹿児島間は国防上内陸を通る人吉経由が採用 |
明治32年 | 1899 | 鹿児島~国分(現隼人)が開通 |
明治36年 | 1903 | 国分~吉松間が開通 |
明治41年 | 1908 | 八代~人吉間が開通 |
明治42年 | 1909 | 博多~八代~人吉~国分~鹿児島間が全線開通 |
昭和2年 | 1927 | 八代~川内~鹿児島間開通 鹿児島線を肥薩線と改名 |
昭和7年 | 1932 | 日豊本線となる |
3 2つの駅舎
ここからは、国分~大隅横川間の敷設工事について紹介したいと思います。国分~大隅横川間は、明治33年5月に着工して、明治36年1月に開通しました。僅か3年の歳月で延長23.4㌔を敷設ですが、この区間は谷間が殆どで、平坦な場所も少ないことから、路線の盛土や切土、トンネルの掘削、架橋の敷設など、非常に困難な工事が続きました。
ところで、今年は肥薩線の国分~大隅横川間が開通して120周年を迎えます。その様子は大隅横川駅と嘉例川駅の2つの駅舎を見ますと、当時の工事の工夫が良く見られます。2つの駅舎の大きさは若干の違いはありますが、建物の間取りや外壁、ホームの屋根工法などは、ほとんど同じ構造をしています。
これは、駅舎ごとに設計図を作るのではなく、基本的には図面を再利用し、また、木材の加工を同一にしてコストの削減や工期の短縮を図ったのではないかと考えられます。さらには、駅舎の屋根には、トラス工法を採用するなど、海外の最新の技術を取り入れていることも注目されます。
これは、私のお勧めですが、駅舎の窓ガラスに注目してください。ガラスを通して風景を見て、少し頭を揺らして見てください。景色がゆらゆらと歪んで見えます。これは、当時のガラスを作る技術が未熟で、現在のように平坦なガラスが作れなかったとが原因となっています。この窓ガラスは現在では手に入れることができない貴重なものとなっていますし、120年間ガラスが割れずに残っていることも驚きです。
4 久留味川の開渠
肥薩線はいくつもの河川や谷間、道路などを横切るために橋や開渠を架けていますが、久留味川にある開渠は非常に注目されるものです。久留味川の開渠は、河川にトンネルを造り、その上に土を盛って線路を敷設しています。
開渠のトンネルは、径間4.2m、内高3.6m、水面径4.0mを測り、レンガを用いた長さ約80㍍のトンネル構造です。側壁下部は切石を1段積み、上部は4重巻きの煉瓦のアーチ構造となっています。この開渠の構造で特筆すべき点は以下のとおりです。
① 開渠の上流部の河床に切石を敷いている |
② 開渠の上流側入口の河床の敷石は凹面状を呈している |
③ 開渠側壁下部に切石を1段しか積んでいない |
④ 開渠側壁下部の切石に地下水抜きの水道口を設けている |
⑤ 開渠底部にはコンクリートを塗布している |
⑥ アーチの上部は4重巻きの煉瓦アーチ構造である(加重に耐える構造) |
⑦ 開渠の土被りは10mと非常に厚い(車両の振動が伝わらない) |
5 最先端技術の導入
私がこの開渠で特に注目していることは、トンネル上流入口の川床の工夫です。上記の②にも書きましたが、トンネルの上流部の河床の敷石がやや凹面状をしている点です。これは、上流から流れてきた水が自然と開渠中央部に集まる構造となっており、水量が増すほど、渦を成してトンネルの中央に勢いよく吸い込むようになっています。
上流から流れてきた流木や岩石が中央に集まるため、トンネルに衝突することなく下流へ流される仕掛けとなっています。例えれば、水の入った一升瓶を逆さにして回転させると渦ができて、あっと言う間に水が出る仕組みと似ています。
開渠が完成してから120年が経ちますが、この間には平成5年に経験したような豪雨や台風なども経験しているはずです。それでも、トンネルの入口側に大きな傷がないことは、この構造の機能の確かさを現しています。
明治時代になってから全国各地に建設された建物や架橋、農業施設などは、海外からの最新の技術が取り入れられ、現在でも現役として多くの施設が使用されており、近代産業遺産としても高い評価を得ています。
文責・写真:鈴木
投稿者プロフィール
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霧島市に在住しています。
読書とボウリングが趣味です。
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