前回は、隼人城の歴史的背景について紹介しました。今回は隼人城の地形的な特徴と、本来なら熊本にある熊本城のように、築城時から呼んでいた城名が「隼人城」ではなぜ「城山」と呼ぶようになったかについて紹介したいと思います。
1 隼人城の地形的特徴
隼人城はこれまで古代から近代では明治10年の西南の役まで、幾度となく山城として使われてきました。それは何故なのでしょうか。確かに城としての立地的条件は抜群です。つまり、大隅半島と薩摩半島を繋ぐ極めて重要な地点にあること、これは奈良時代に大隅国の政庁であった国府が当地に置かれことからでも分かります。さらには国分平野という人々を養う豊かな穀倉地帯を見下ろす場所にあることが挙げられます。
しかし、私は上記に示した条件に加えて、山城を構成している「地形と地質」に要因があるのではないかと思っています。前回でも述べましたように、隼人城は台地のほとんどが溶結凝灰岩であり、その上を火砕流堆積物(シラス)が覆っています。
溶結凝灰岩は、姶良カルデラの噴火の過程で火山噴出物(シラス)が深く積もり(南九州では200㍍以上)、噴出物堆積時の700度以上の熱と数十万㌧の重さ(圧力)によって再び溶融(固体が液化する)して再び岩石になったものです。
溶結凝灰岩の成形時は高温を保っていますが、その後だんだんと温度が下がり始めると収縮が始まり、垂直方向を含め縦横に亀裂が生じます。これが原因で垂直剥離(一般的には柱状節理と呼んでいます)の現象を起こします。
隼人城の50㍍以上の断崖絶壁はこのようにしてできました。ちなみに、霧島市牧園にある犬養滝や霧島神宮の近くにある霧島神水峡、宮崎の高千穂峡も同様な現象で垂直な滝や両岸を切り立った地形となっています。
また、溶結凝灰岩の上にはシラス(表層面は植物の腐食土が混ざった黒色土)が覆っているため、雨が降ると雨水はシラスに浸み込みますが下層の溶結凝灰岩で塞き止められるため、シラスと溶結凝灰岩との境目から湧水として地表に出てまいります。ちなみに、地元の高齢の方から「昔は、現在ゴーカートが走っている場所には田んぼがあった。」と教えていただき、いかに湧水が豊富だったかを物語っています。(現在でも二ヵ所の湧き水が確認されています。)
このように、隼人城は天然の要害と豊富な湧水によって、長い期間の籠城にも耐えうる山城となっていました。
4 城山の名の由来
ところで、本来「隼人城」という名前があるのに、どうして「城山」と呼ばれているのでしょうか。
これは、江戸時代の初めに幕府が布告した「一国一城令」に併せて各藩に築城を制限しました。特に薩摩藩には堀・石垣・天守閣を持つ城の城築を許さなかったことが要因となっています。このようなことから、薩摩藩の城は、平時は行政(住居も兼ねる)を行う施設を麓に平屋の「館」を造り、緊急時(幕府からの攻撃を想定)には館の後背の山地に「詰め城」を置くといった形態をとりました。
国分では、現在の国分小学校と国分高校の一部に館(舞鶴城)が置かれ、後背地の隼人城が詰め城となりました。鹿児島本城の場合は、現在の黎明館の場所に「鶴丸城」が置かれ、後背地の「上山城」が詰め城となりました。このように、薩摩藩では詰め城のことをいつしか「城山」と呼ぶようになりました。
ちなみに、伊集院では、本来は「一宇治城」ですが、現在では城山と呼んでいます。また、私の出身地である財部でも、本来は「龍虎城」ですが、ここでも城山と呼んでいます。
私は、霧島市を中心に県内の山城を散策しましたが、どの山城も南九州独特の地形を利用した、急峻で守り易く、攻め辛い形態となっていました。
これはあくまでも私見ですが、他藩のように堀を巡らし、高い石垣、天守閣を持つ城の築城は膨大な費用や維持費が必要となってきます。それに比べて薩摩藩の築城は、地形を利用した最低限の労力で済みますので、考え方によっては非常に経済的な築城ではないでしょうか。
ちなみに、行政を行う館(地頭所)は城下の近くにあり平屋なので、堀を渡ったり長い石段を登る必要もなく登城も楽です。まぁ、派手さはないですけど!
現在「城山」と呼ばれている山城は、薩摩藩領内には地方行政であった「郷」は113箇所ありましたので、理論的には113の城山が存在しているはずです。皆さんの近くにも城山の地名が残っているのではないでしょうか。
文責:鈴木 写真:著者撮影、霧島市提供
投稿者プロフィール
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霧島市に在住しています。
読書とボウリングが趣味です。
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