鹿児島神宮の2つの鳥居をくぐりますと、石段の手前に用水路があります。地元では「宮内原用水路」と呼ばれており、今から306年前の享保元年(1716)に完成しました。
今回は国分平野の天降川右岸の水田を潤す宮内原用水について紹介します。
1 宮内原用水路整備の背景
霧島市隼人町の天降川右岸にある水田は、そのほとんどが河岸段丘の微高地にあります。川から直接水を引いて水田は、天降川沿いにある低地のみであり、その面積は僅かとなっています。特に、鹿児島神宮の西側(内山田、真孝、小田、野久美田)に広がる微高地は、平坦で耕作地としては非常に良い土地ですが、水の供給がないため、長い間、畑作地として使われていました。
江戸時代の薩摩藩は、慢性的な財政赤字に陥っており、その解決策として新田開発に力を入れていました。また、国分・隼人地域の生活の向上を図るうえでも、新たな水田の整備は必要不可欠な課題でもありました。
そのような状況の中、郡奉行であった汾陽盛常は、宮内原用水の整備を自ら薩摩藩に願い出ましたが、あまりにも難工事と判断されたため、請願は却下されました。しかし、現地での説明や粘り強い交渉を続けた結果、藩からの許可を得ました。そして、正徳元年(1711)12月に工事を着工し、5年の歳月を費やし、正徳六年(1716)4月に完成しました。
2 宮内原用水の概要
宮内原用水は、天降川の妙見温泉近くにある水天渕から取水し、西光寺、内、内山田、小田、真孝を経て野久美田までの約12㌔の延長を測り、その灌漑面積は約436㌶と国分平野で最大の水田域を潤しています。取水口と最終尾の田との高低差は約17㍍で、用水路の勾配は1000㍍分の50㌢、つまり2㌔で1㍍下がるという極めて平坦にちかい勾配で、当時の測量技術の正確さに驚かされます。
用水路の途中には、嘉例川と西光寺川が横断するように流れており、ここでは川底を石組のトンネルを通す「潜り」という工法を用いています。さらには、山を刳り貫いた隧道や放水門などの設備は、300年経った現在でもまったく支障のない強靭な造りで、安定した水量を確保し供給しています。
3 宇都山の鼻んす
鹿児島神宮から300㍍ほど下った宇都山に、山を刳り貫いた2穴の隧道があります。人の鼻の穴のように見えることから「鼻んす」と呼ばれています。また、宮内原用水には10ヶ所の隧道がありますが、そのほとんどが2穴となっています。これは、この用水路の灌漑面積が436㌶と広大で、水田に必要な水量を確保するため、用水路の幅が広くしなければなりません。そのため、用水路の崩壊を防ぐため2穴の隧道を採用しました。
また、随道の出入り口両方に突起のようなものが付いています。これは、用水が2つのトンネルに出入りする時に起こる水流の渦を防止するために設置されたものと思われます。用水路で起こる渦は、一見すると激しくない渦と思われますが、50年・100年と続くと徐々にトンネルの壁面が侵食されトンネルの崩壊へとつながります。
このように、宮内原用水は当時の最高の土木技術を導入して完成させました。水路の工事では、潜りや2穴の隧道など、一見コストが増すように思われますが、水路の管理がし易く、災害にも強い工夫を入れるなどして、将来にわたり安定した水の供給を行っています。
『國分宮内御新田溝壹流見譜并見立覚』によりますと、工事費は銀124貫370匁余と書かれています。銀1貫を約25両とすれば、約2500両の費用となります。
宮内原用水は5年の歳月をかけて完成し、この地は約6000石の石高が採れる豊かな穀倉地帯へと変りました。
水天渕にあります記念碑「大隅国桑原郡西国分郷鑿溝崇水神記」の最後の文章に「水や水や能く鑿つところに従い田間を浸し灌ぎ、永年安楽なれ」と水神を祝い、歌ったとあります。当時の人々にとって、宮内原用水の完成がいかに重要で嬉しい出来事であったかを窺わせる碑文となっています。
もうすぐ田植えが始まりますし、県内の各地にある用水路が活躍する季節となります。先人の水田に対する労苦を思い馳せながら、田植えや稲の成長を見てはいかがでしょうか。
文責 鈴木
投稿者プロフィール
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霧島市に在住しています。
読書とボウリングが趣味です。
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